荒川区の町名が少ない理由


自分たちの街のルーツともいえる、荒川区の地名の由来を何回かに分けて紹介していきたいと考えています。

さて、荒川区の地名はと言うと・・・皆さんご存知の通り荒川、南千住、東日暮里、西日暮里、町屋、西尾久、東尾久とたったの7つしかありません。なぜこのようなことになったのでしょう?

荒川区は4つの町が合併して東京市に編入されて出来た区です。北豊島郡三河島町(町屋は三河島と合併してた)南千住町、日暮里町、尾久町が合併したのですが、東京市に編入される前は大字、小字がありました。例えば北豊島郡三河島町大字三河島字前沼とか。現在では町会の名前や児童公園の名前、交番や交差点、小学校の名前などに残っていますが、荒川区内にもたくさんの地名がありました

これが整理されていくきっかけは昭和7年(1932年)4町が合併し、東京市に編入されて荒川区が誕生した時です。この時にたくさんあった大字、小字は廃止されたり、後に統合されていき、三河島町、南千住町、日暮里町、町屋、尾久町の5つに絞られてしまいます。反対運動など起きなかったのかなと思いますが、郊外から急速に都市化し、人口も急増したので都市化の流れと共に大字、小字の廃止には特に根強い反対など起きなかったのかもしれません

三河島、南千住、日暮里、町屋、尾久という町名が変更されずに残ったのは幸いと言えるかもしれませんが、三ノ輪、金杉、谷中本、船方、地方橋場、下尾久、上尾久・・・など昔の村名から来る古い地名が無くなってしまったのは惜しいと思います

 

1962(昭和37)年5月10日に住居表示に関する法律が施行されたことも荒川区に影響を与えました。昔の町の境界は複雑に入り組んでいてわかりづらく、そのうえ地番で表記されていたので番号が飛び飛びなので郵便配達やパトカー、救急車が困惑することが多かったのです(例 荒川区三河島町3-471とか)

 

それを解消するために1962(昭和37)年5月10日に住居表示に関する法律を施行し、町と町との境界をわかりやすく線引き、地番整理を行い何丁目何番地何号といった新しい住居表示を導入したので東京各地でも多くの古い地名が失われました。

 

昭和36年に自治省は荒川区を住居表示モデル地区として指定され、実験的に他区に先駆けて地番整理を行い住居表示に関する法律施行前に荒川1~8丁目、町屋1~8丁目が成立しました。荒川区は住居表示の実験台だったのですね

 

これによって荒川区はどう変わったのでしょうか?町名は日暮里町が東日暮里、西日暮里に分かれ、尾久町も西尾久、東尾久に分かれたので町名は5つから7つに増えています。しかし中世からの地名である三河島が「荒川」に変更されて消えてしまいました。このことについては後日詳しく書きますが残念なことです。

 

(現在は荒川区荒川の町名も昔は三河島町でした。また写真を見てわかる通り町の境界が線路や道路で分けられず飛び越えていってるので、現在は東日暮里、西日暮里の町名になっているところまで三河島町の範囲が広がっています。これが中世から続く三河島村の範囲の名残であり昭和37年の住居表示に関する法律ができる前までは残っていました)また区画が整理されて町と町の境界が道路や線路によって分けられたのでわかりやすくなったのですが、中世からの町の区域が変更されました。それまで三河島だったところが東日暮里になったり、西日暮里になったり、尾久だったところが町屋になったり。そんな経緯があるので東日暮里なのに元三島神社の氏子ではなく素盞雄神社の氏子だったり、町屋なのに尾久八幡神社の氏子である町域があるのは、利便性を優先して歴史は無視して町域が変更されて違う町の所属に変わったからなのです。

 

(今は尾竹橋のたもと、原公園付近まで荒川区町屋になってますが、元々は尾久町でした。なのでこの辺りは住所が町屋でも素盞雄神社の氏子ではなく、尾久八幡神社の氏子なのです。住居表示を見やすくするために昔からの町のつながりが分断されていきました)

荒川区の町名がシンプルなのは東京市に併合されるときに大幅に整理されたこと、その後、住居表示モデル地区になったことに関係しています。消えた地名を復活させることは難しいのですが地元の人たちが忘れずに語り継いでいきたいものです